【この世は幻】現実は幻想に過ぎない理由とは?

こんにちは、桑本です。

「この世は幻であり、幻想です。」というと驚きますか?
私たちは脳や心の授業を学校でほとんど学ばないので、
この世界のことをあまりにも知らなさ過ぎています。

夢や願望を実現するためには、
この世は幻という知識は身につけておくことが大切です。

今回は、なぜ「この世は幻」なのか?
また、幸せな生き方とはなにか?
について具体例を交えながら解説していきます。

「この世の正体」を理解し、
自分の人生を自由に歩んでいきましょう!

この世は幻

今見えている世界は実は幻だと言うと

あなたは驚くでしょうか?

実はこれは昔から仏教で言われていたことであり、

現代の科学によっても明らかになりつつあります。

目の前のリンゴはある?ない?

リンゴを例にして説明しましょう。

目の前にリンゴがあったとします。

赤くて美味しそうなリンゴ。

手に取ると適度に冷たく、
匂いを嗅ぐと甘い香りがし、
食べてみるとジューシーなリンゴの味がします。

さて、
この美味しいリンゴですが、実は幻なんです。

正確に言えば、
あるとも言えるし、
ないとも言えるということです。

「いや、でも明らかに目の前にリンゴがあるし、
ちゃんと触ることも出来ますよ。」

と思うかもしれませんが、

そういう風に感じさせているのは
あなたの脳であり、心です。

あなたがそう感じているだけであって、
確実にそこに実在するとは言い切れません。

つまり、この世のあらゆる存在は
一見あるように見えるけれども、
実は脳が作り出した幻だ
と言えるわけです。

この世界は「脳と心」によって生み出されている

そのため、私たち人間は
脳に魅せられた幻の世界を
生きていることになります。

これは映画「マトリックス」の世界と同じです。

脳にコンピューターを接続し、
バーチャルな世界を見せ、
それをリアルだと感じ、臨場感を持つと
それが自分にとっての現実世界となるわけです。

私たちが普段目にしている
あらゆるものは可視光線ですが、

それは波長が380nm~780nmの電磁波です。

その電磁波を脳が認識し、
映像として理解しているわけです。

そのため、目の前のリンゴは
電磁波を色として解釈しなかった生き物にとって
存在していないわけです。

ということは、

この世界は解釈によってどのようにも変わる

ということになります。

つまり、

この世界は脳によって生み出されている

と言えるのです。

この世は幻でも、お腹は減る(笑)

そうは言っても、
時間が経てばお腹は減るし、
ずっと起きてれば眠くもなります(笑)

これは幻だと言われても、
実際この感覚はリアルなもので、
そう感じるのだからしょうがないわけです。

このような人間が持つものを煩悩と言うわけです。

煩悩があるから、幻である世界を
現実のものとして、
まさにそこに実在するように
認識しているのです。

幻の世界でどう生きていくか?

じゃあ、この幻の世界で
私たちはどう生きていくべきなのでしょうか?

「この世界は幻なんだから好き勝手すればいい」

という人もいるでしょうし、

「自分の煩悩を消して悟ろう」

とする人もいるでしょう。

しかし、これらは現代において
幸せな生き方とは言えません。

煩悩を全面肯定すればIQが下がり、
様々な罠・勧誘に引っかかりやすくなります。

また、煩悩を消してこの世から去るほど
辛い時代ではありません。

煩悩をコントロールする

この世は幻であると十分理解したうえで、
現代において重要かつ幸福な生き方は、

煩悩をコントロールして生きるということです。

つまり、感情をコントロールすることです。

「何かを買いたい」
と思えば買えばいいです。

「美味しいものを食べたい」
と思えば食べればいいわけです。

でも、それらの気持ちを抑えることも
出来なければいけません。

この世は幻なのだから、
自分のこの感情も幻だと思えることが大切です。

このように、
この世は幻だと知れば、
自分の感情・煩悩を冷静に観ることが出来ます。

煩悩をコントロール出来るようになれば
他人からの甘い勧誘や誘惑に
流されることも無くなり、
抽象度の高い思考が可能となります。

つまり、
高い視点で物事を考えられるようになります。

現代における幸せな生き方は「抽象度を上げる」こと

抽象度が上がれば、
自分の幸せはもちろん、
他人の幸せも実現できるようになります。

まさにこれこそが現代における
幸せな生き方、考え方と言えます。

この世は幻ではあるわけだけれども、
自分には心があり、他人にも心がある。

その心という存在を慈しみ、
仮の役割・存在を持たせたうえで
自分も含めた周りの人を幸せにする人生を送る。

これこそが、
ゆるぎなく幸福な人生であり、

社会に幸福な人を増やし、
世界をより良く変えていくことにつながります。

まとめ

この世界は幻というと悲しい気持ちや
嫌な気持ちになる人もいるかもしれません。

しかし、そう感じる必要はありません。
なぜなら、感情、煩悩はあってもいいからです。

釈迦は菩提樹の下で悟った後、何をしたと思いますか?

ご存知の通り、
悟りを世の中の人に広めていったわけです。

あの釈迦でさえ

「悟りを広めたい!」

という感情・煩悩があったということ。

つまり、煩悩はあってもいい。
むしろ、このような抽象度の高い大きな煩悩は良いことです。

ですから、煩悩を消そうとせずに、
ぜひ世の中のためになる大きな煩悩を持っていただければと思います。

それが自分はもちろん、人々の幸せにつながりますからね。

・・・

以下の動画では、認知科学の観点から”この世”について解説しています。
ぜひチェックしてみてくださいね↓

 

\あなたの潜在意識レベルは何点?/
【60秒】潜在意識レベル診断テストを公開中!
潜在意識書き換え×認知科学セルフコーチング
プレミアム特典の無料受け取りはこちら↓ https://www.tryinteract.com/share/quiz/65619632334574001485eb62

20 件のコメント

  • 面白いですね。プラトンのイデアやデカルトの二元論みたいなものかな?

    私も人間の可視光線以外しか反射しない生物がいた場合、人間にとってその生物は存在するのかしないのか考えたことがあります。

    将来、抽象度を上げた思考から重力操作の能力が生まれたら、100メートル走2秒とか夢じゃないですね(笑)

    • コメントありがとうございます!

      勉強不足で恐縮ですが、二元論ではなく一元論に近いものだと理解しています。物理と情報は同じ(物理は情報に含まれる)という内容です。

      残念ながら、いくら抽象度を上げた思考をしても物理法則は変えられないので不可能です…。瞑想空間では可能ですが。

  • まあ生きている確率が
    人間の一生の時間(80)/宇宙の時間(∞)≒ゼロ
    ですからね。
    生きていること自体がおかしい=この世は幻です。

      • そうですね。時間はあるとも言えるし、ないとも言える。自分がどう認識するかによって変わります。ちなみに可能世界論では過去、現在、未来は無限に存在しているそうです。

    • 宇宙の時間スケールで考えると、人の命は儚いものですが、その時間そのものも、人の認識によって生まれていると考えられます。

      「この世は幻」という意味は、目の前に広がっている物質的な世界も実は情報だという部分にあります。ネガティブな発想に聞こえますが、これをポジティブに捉えることで、自分の感情に振り回されにくいマインドを手に入れることができます^ ^

  • はじめまして。自分の人生観に疑問や確信を持ち、こちらへ来ました。興味深く、私も同様の考えです。
    生い立ちから苦しい人生でした。中年になり、不思議と色々見えない存在を確信しています。電車の中でリラックスして眠りそうな時や職場でも眠りそうなシータ波が出た時に、はっきりと活字が見えたり、離れている知人が痛がっている様子が見えました。活字は私の人生論で教えてくれました。私は薄々気付いていました。人生にはテーマがあります。自ら苦しい辛い体験を選んで来ています。今はわかるので、瞑想したり天に身を委ねています。
    肉体を持って生まれた事がありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。

    • コメントありがとうございます。
      ただ、自ら苦しい体験を選ぶというコメントが気になりますね、、、天に身を委ねるのはただの現状維持ではないでしょうか?厳しい言い方ですが。
      大切なのは、過去は一切関係なく、自分の本音に基づいた未来を設定して生きることです。今この瞬間に幸せな未来を実現しているという体感を持つことが大切ですよ。そうすれば現実世界は変わり始めますから。

  • 人間に心は存在するのでしょうか?私達の感情や意識すらも脳が作り出した幻なのでしょうか?

    • この世界は、情報空間と物理空間(精神空間と物質空間)があると仮定すると、脳は物理空間のもの、心は情報空間のものです。なので、感情や意識は脳と心の両方の情報処理によって生まれているものです。それを幻と呼んでもいいですし、意味を持たせてもいいです。どのように考えるかはその人次第ですね。僕は意味を持たせた方が楽しいので意味を持たせますが。楽しいという幻を楽しんでいます。

  • 幻想だとか、~論とか言っていること自体が幻の世界なのですね。仏教でいう「無」とは「有るとか無い」とかすら無いということですね。認識できる全ての物事は自己が創り出した世界です。ですから自分もその内に入ります。絶対的主体があることによって客体は存在できるのですし、客体がなければ主体は存在できません。主体は永遠に客体にはなれません。主体が主体を観ることはできません。自分の目を見ることができないのはそのためです。その絶対的主体を仏というのですね。

    • 絶対的なものはこの世には存在していないような気がしますね。全ては情報で、相対的なもの、解釈によって存在意味が変わるものだと考えています。自分という認識主体が物質と精神を含めたこの宇宙に意味付けし、存在として認識しているという感じなのかなと。面白いですね。

  • この世から生まれて14年死とは何か? この世界は何なのか? という疑問が物心ついた瞬間に抱いた疑問です。(もっとありますが) あまりにもいい人生を送っています。 金はあるし友達もいる旅行にも行くしいやなこともいっぱい起きるけど僕はいろんな感覚や音 匂い 感触 味を感じれますだが耳が良いんですよそれと自信が来る前のごオオって感じの音が毎日のように聞こえます怖い けどこれってあまりにも良すぎる人生なので疑問がありました。 そろそろ帰宅なのでコメントを終わりにします

  • なぜ他人を幸せにする様に向けなければならないのか分からないです。

    他人が不幸にして、自分だけが幸せになるように祈っていたらダメなのでしょうか?

    • それでもいいんですが、生きづらいですよ。基本的には、自分と相手の両方が幸せになれるwin-winの行動ができる人が一番豊かで幸せになれます。もちろん、そうじゃない領域もありますが

  • 自分の幸せは感じることができるけど、慣れたら同じ。他人の幸せは感じることができないから、想像することでずっと自分が幸せでいられる。その幸せは慣れることが無い、ずっと幸せでいられる。死ぬまで

    • あーなるほど。その考え方はありますね。幸せの表面積を広げると言われたりしますね。自分だけの幸せだと表面積は小さいけれど、他人の幸せも感じられるようになれば、人の数だけ幸せの表面積は増えていく。。。

  • 記事の本旨とはズレますが、
    仏陀は当初特に悟りを広めたいとは思っていなかったらしいです。悟り(サンスクリット語でサマディ、中国語で三昧)を開いた後この世をこのまま去ろうかと思案していたところ毘沙門天が現れてその体験を世に広めてほしいと頼まれて仕方なく教え始めた、だった気がします。

    記事に目を通す人に誤った認識を与えてしまうおそれがありますので、記事を起こすのであれば史実のあるものは完全に把握することはもちろん難しいまでも、なるべくしっかりとお調べされてからの方がいいと思いました。

    下記の表現は仏陀の自伝や彼自身の口から出た言葉として読んできた書籍と大きくニュアンスが違います。

    あの釈迦でさえ

    「悟りを広めたい!」

    という感情・煩悩があったということ。

    • ありがとうございます。なるほどですね。
      私はあまり詳しくないのですみませんが、私の考えでは、結局、釈迦はいろんな人に仏教的な生き方や考え方を伝えている行動をしているので、「広めたい!」という欲求があったんだと思います。たしかに毘沙門天かブラフマンかは
      知りませんが、そういう存在に頼まれたという話はあります。でも最終的に「広めよう!」と判断して行動しているのは釈迦なので、そういう感情や煩悩はあったのだと思います。まあ、そもそも釈迦が存在していたかどうかも不明らしいですが。

  • コメントを残す