プロフィール


認知科学セルフコーチング開発者
桑本彰文(くわもとあきふみ)

<主な経歴>

◆イタリアの学会で認知神経科学の研究成果を2015年に発表。延べ1000冊以上の本や論文を読む中で、セルフコーチングに強く興味を惹かれ、潜在意識書き換えを実践することがライフワークとなる。

◆大手メーカー就職後、主力製品を2種開発し、100億円の売上に貢献する。それと並行して、世界最高峰の認知科学&アドラー心理学に基づくコーチング理論手法を学ぶ。2019年に認知科学×セルフコーチングを専門とする認知科学コーチとして独立。潜在意識を6つのSTEPで書き換えて、半自動的に夢を叶えるというロジカルな理論手法が評判となり、Youtube検索「認知科学」では3年連続でTOP1位を達成する。

◆これまでに累計200名以上にコーチング支援を行い、起業コンサル、法人向け研修プログラムの開発にも携わる。その他に監修本のAmazonランキング24部門1位、Webメディア「Re・rise News」インタビュー取材などの実績を持つ。

◆2200年までに「戦争と差別をなくし、世界平和を実現すること」をゴールとし、「個人の幸せが、周りの幸せ、世界の幸せへと繋がる」をモットーに活動中。現在は、認知科学セルフコーチングを活用した、成功と幸せの両方を実現する潜在意識の使い方を広めている。

<自伝>生い立ち、半生

最も成功できるタイプとは?

才能や環境に恵まれず、「もう成功するのは無理だ」とか「もういい歳だし、諦めよう」と思うことがあるかもしれない。確かに、簡単に成功できるほど人生は甘くない。でも、やってみないことには分からない。案外、成功できるかもしれないし、やってもいないのに諦めるのはもったいない。大切なのは、「できるかどうか」ではなく「やりたいかどうか」だ。たとえ結果的に無理だったとしても、挑戦したという事実が、「やれるだけのことはやったよな」と自分を肯定させてくれ、後悔のない人生へと繋がっていく。

行き詰まった時は、一晩寝かせて考えてみよう。人の意識状態は日々変化するものだ。明日の自分、数日後の自分、数ヶ月後の自分が、必ず突破口を見つけてくれる。脳には質問によって空白を与えれば、自動的にその答えを見つけ出してくれるという機能がある。僕自身、これまでの人生で、そんな経験を何百回も繰り返してきた。 僕はアイデアを出すことがものすごく得意だ。あらゆる角度から検討し、最も成功確率の高い打ち手を探し出す。 そして、実際に試してみて、失敗したら改善し、また試す。この繰り返しによって、数々の困難を乗り越え、人生をサバイバルしてきた。

もちろん、一人で抱え込む必要はない。専門家の力を借りることも効果的だ。プロの視点やノウハウは、自分の心理的盲点(スコトーマ)を外し、成功へのスピードを格段にアップさせてくれるだろう。

ベストセラー書籍『GIVE&TAKE』によると、最も成功から遠ざかるのは「Giver」だという。他人に与えすぎて、自分を犠牲にしてしまうタイプ、僕の母親がまさにこのタイプだった。次に成功しやすいのは「Taker」。他人から奪うことに長けたタイプだ。僕の父親がまさにそうで、母親のタイプとは正反対である。まあ、ある意味よかったのかもしれないが、この組み合わせはどんどんマイナス方向へエスカレートしやすい一面も持っている。

あとは、GiveとTakeのバランスが取れた「Matcher」は、それらよりも成功に近づきやすいタイプだということが分かっている。自分に余裕がある範囲で他人をサポートし、受けた恩はきちんと返すことができるわけだ。

そして、最も成功できるのは、「Win-Win」の関係を築けるタイプの人だ。自分も相手も、お互いに支え合い、相乗効果で豊かになれるから、自分も周囲もより豊かに幸せになっていく。

「〇〇さんと自分がWin-Winを築くために、何か良いアイデアはないだろうか?」

このように自問自答しながら、日々の生活で他人とコミュニケーションをとるといい。そうすれば、ビジネスはもちろん、家族や友人関係、趣味や健康といったあらゆる面で、他人とシナジー(相乗効果)を起こせるようにいなってくる。日常の中に人生をより良くしてくれるリソース(資源)はたくさん隠れているのだ。

しかし、こう言うと「いや、私は一人で全部できるタイプなので必要ないです。」と思う人もいるかもしれない。実は僕自身も何でも器用にこなせるタイプなのだが、その一方で、つい一人で抱え込んでしまいがちだ。でも、それではもったいない。仕事でも家事でも、自分が不得意なことであれば、なおさら他人に任せてみるべきだし、自分が好きなことや得意なことに集中したほうが、楽しいし効率がいい。自力でやろうとせずに、他力を上手に活用することが大切だ。サッカーの本田圭佑選手も「自分の成長を加速できる環境に身をおくべきだ」と大学の卒業式でスピーチしている。

前置きが長くなってしまったが、つまり何が言いたいのかというと、僕はこんな感じで幼い頃から「どうすれば成功できるのか?」「どうすれば幸せになれるのか?」などと、日々、自問自答する子供だったということだ。両親は放任主義だったが、元校長だった祖父の教育が大きく影響しているのだと思う。

「成功したい」「幸せになりたい」「自由に生きたい」「愛を深めたい」

これらの強い欲求が、僕の根底には常に存在している。そして今、セルフコーチングの仕事に携わっているのも、きっと必然なのだろう。

これまで、自分の生い立ちについては深く語ったことがなかった。しかし、せっかくの機会なので、赤裸々に書き記してみたいと思う。決して華々しい人生ではないが、人生が大きく変わる岐路が何度もあるような、それなりに波瀾万丈な半生だと感じている。

そして、人生の岐路に立つたびに、潜在意識(思考・感情・行動)を活用していくことが、僕を導いてくれた。不満で八方塞がりな状態から、どうやって理想の状態へと好転させていくことができたのか?この体験談が一つの事例として、あなたの参考になれば幸いだ。

厳しい祖父からの英才教育

1993年、鳥取県生まれ。海と山に囲まれた、のどかな田舎町で、祖父母、両親、姉との6人家族で育った。物心つく前は病弱で、マイコプラズマ肺炎、手足口病、おたふく風邪、水疱瘡など、様々な病気を経験した。入退院を繰り返す日々で、点滴をつけたまま病院の廊下を歩いている、そんな幼稚園児だった。寂しがり屋の僕にとって、入院生活は辛いものだったが、いつも母が付き添ってくれたので、安心して過ごせたことを今でも覚えている。

一緒に暮らしていた祖父母には子供ができなかったため、父を養子に迎え入れたそうだ。なので、写真のように祖父母が6人もいることになる。


左から)母の父、義理の祖母の姉、母、叔母、母の母、義理の祖母、義理の祖父、父の母、父の父


母と父


保育園の頃。やんちゃで落ち着きがない子供だった。母親似とよく言われる。

祖父(正確には義理の祖父)は小学校の元校長で、とても教育熱心で厳しい人だった。学校の宿題以外に祖父オリジナルの宿題が毎日出されていたため、朝5時半から勉強して学校へ行き、学校から帰ってからも、学校の宿題と祖父の宿題、そして習字の練習もあり、毎日が勉強漬けの生活だった。

今振り返ってみると、それがあったからこそ物事を合理的に考えるのが得意になれた気もするが、当時の僕にとっては辛いものだった。友達は遊んでいるのに自分だけ勉強しないといけないからだ。あとは礼儀にもすごく厳しかった。履物を散らかして脱いでいると、物を投げつけたり、頭をげんこつで叩かれた。まあ、昔は軍人もやっていたそうなので、体で教えるタイプの人で、とにかく厳しかった。

その一方で、祖父は僕に期待していた。口癖のように「大人になったら、彰ちゃんが家を継いで守っていかないといけないんだよ。」と言ってた。というのも、当時住んでいた家の先祖は大地主だったそうで、広さは300坪ほどあり、江戸時代から400年続く歴史があったからだ。鳥取の田舎だったので、平成になっても長男が家の跡を継ぐという考えが根付いていたのだろう。正直、「住む場所ぐらい自分で決めさせてくれ」とは思ったが、そうは言えず、「うん、わかった…。」と、いつも弱々しく返事をして誤魔化していた。

そんなこんなで、僕は4歳から、祖父のススメで書道を習い始めた。嫌々ではあったが練習に励み、数々の賞を受賞した。毛筆、仮名文字、硬筆の全てで最高段位の十段を取得し、中学三年生の時には「万物成長」の文字で、神戸笹波全国学生書道展で大賞(神戸市教育委員会賞)を受賞した。書道を通してかなり美的感覚は養われたと思う。

それと並行して、9歳からは、そろばんも習い始め、13歳で、全国珠算教育連盟主催珠算検定において、そろばんは初段、暗算は五段を取得した。暗算五段と聞いてもピンと来ないだろうが、例えば、「7,418×9,573は?」と聞かれたら、9秒で計算することができた。もはや歩く電卓と言っても過言ではない(笑)。ただ残念ながら、これも好きでやっていたわけではない。むしろサボり気味だったにも関わらず、教室では最年少記録を叩き出した。恐らく、生まれつきイメージ力や想像力に長けており、そろばんの玉を頭の中でイメージして操作するという暗算との相性が良かったのだと思う。

     
中学三年生で大賞の神戸市教育委員会賞を受賞

     
暗算五段を最短取得。日本海新聞に掲載。

いじめ・離婚・家出・借金が重なった暗黒時代

そのような感じで、幼少からそれなりに成果を出すことができたが、それとは裏腹に、メンタル的には不幸のどん底だった。おそらく厳しい英才教育の副作用だろう。他人の評価を過度に気にしてしまい、自分に自信が全く持てなかった。幼稚園の頃から、祖父に「小学生になると勉強が難しくなる」と言われていたせいで、小学校への入学を極度に恐れ、その不安からチックの症状が出るようになっていた。もちろん、普段から祖父はプレゼントを買ってくれたり、旅行に連れて行ってくれたりもしていたので、優しい面もあった。しかし、少しでも気に食わないことがあると人が変わったように怒り出し、他人と比較しては人格否定する性格だった。

厳格な祖父とは反対に、父親は遊ぶことが大好きで、お酒、ギャンブルに明け暮れる日々を送っていた。当然のようにその二人は馬が合わず、しょっちゅう衝突していた。父親は仕事に行くと嘘をついては、夜遊びに出かけており、それがバレて祖父に叱られるのは、よくあることだった。そして、母親は真面目な性格だったため、祖父母とは全く衝突することがなかったが、我慢のし過ぎでストレスをだんだんと溜めていった。子供と一緒に心中しようと思うほど精神的に追い詰められ、最終的にはうつ病になってしまった。そのような出来事が積み重なり、家族関係はどんどん悪化していった。

そして、僕が小学2年生の時のことだ。祖父母と両親が大喧嘩をした。きっかけは両親が畑仕事をサボったという些細なことだったが、それまでにお互い積もりに積もったストレスがあったのだろう。その日の夜、僕と姉は両親に連れられて突然家を出ていくことになったのだ。今から振り返ると、これは最初の人生のターニングポイントではあったが、当時7歳の少年にとっては生まれた家を出ていくことは大泣きするほど悲しかった。

その後、家族4人で鳥取県の米子市という、山陰地方では都会の地域に引っ越して、新しい生活が始まった。最初の頃は家族みんなでピクニックに出掛けたりして楽しかったが、それはほんの数ヶ月ほどで、だんだんと僕の人生におけるどん底の暗黒時代が始まった。

慣れない環境での生活はとても辛いものだった。特に都会の小学校に転校し、雰囲気になじめず、小学5年生の時にクラスでいじめのターゲットにされてしまったことが大きかった。休み時間は最悪で、悪口はもちろん、殴る蹴るの暴力。頭を踏みつけられることもあった。昼休憩を少しでも短くするために、給食をわざとゆっくり食べるようになり、図書室に一人で逃げ込むことが日課になった。図書館は静かにしないといけないルールがあったため、僕にとって唯一心を休ませてくれる場所だった。

中学校に進学してからも、状況は大きくは変わらなかった。担任の先生の配慮で、小学校時代のいじめっ子とは同じクラスになることは避けられたものの、他のクラスメイトから悪口や陰湿な嫌がらせを受けるようになった。具体的な言葉は控えるが、特に容姿については、ありとあらゆる悪口を言われた。あとは放課後に、自転車のサドル部分に砂を詰められたり、自宅のマンションのポストにゴミを入れられたり、ベランダに石を投げ込まれたり、部屋の窓を開けて不法侵入されることもあった。もはや警察に通報してもいいレベルで、心理的安全性が全く確保されていない、いつ不登校になってもおかしくない状態だった。

なぜ、僕は、いじめる側にとって格好のターゲットに映ってしまったのだろうか?今になって思えば、自分に自信がなさすぎて、オドオドしていたからだと思う。いつも前髪で顔を隠していたし、人と話す時は目を見ることはなく、下を向いて歩いていた。他人に遠慮しすぎて、嫌なことがあっても我慢してしまうことが多かった。この性格は母親の遺伝と、厳しい祖父の教育によって形成されたのだろう。僕はいつも祖父の顔色を伺いながら生きていた。まあ、学校自体の治安が悪かったというのもあるが。

たまには僕自身も悪口を言ったり、相手に手を出して反撃することもあった。しかし、根は優しいタイプなので、どうしても本気で相手を傷つけることができなかった。その中途半端さが、逆に相手を刺激し、いじめをエスカレートさせてしまったのかもしれない。

そして、追い打ちをかけるように家庭環境も悪化していった。母親はうつ病で病院に通っており、姉は中学校になじめず不登校になった。父親はギャンブルや浮気を繰り返し、借金は1000万円あった。アパートの家賃を何ヶ月も滞納するようになり、ついに両親は離婚。当時、僕は中学1年生で、まるで社会から取り残された「はぐれ者」のようだった。嫌なことが多過ぎて、当時の写真は全て燃やしてしまった。

そんな辛い日々の中で、ある気持ちが、心の奥底で芽生え始めた。

「こんな生活から早く抜け出したい」

「大人になったら幸せになりたい」

そして

「どうすれば幸せになれるのだろうか?」

と、自問自答するようになった。これが僕にとっての初めてのセルフコーチングだった。友人関係も家族関係もうまくいかず、精神的に追い詰められた思春期の僕にとって、それは命賭けの切実な問いだった。

中学教師からの「ある言葉」で人生が激変

そんなどん底の僕に、手を差し伸べてくれた人がいた。中学三年生の時の担任、松本先生だ。

中学三年生の秋までは、勉強には全く興味が湧かず、PSPのモンスターハンターというゲームに熱中する日々を送っていた。周りのクラスメイトが高校受験について考え始める中、僕は現実から目を背けるようにゲームの世界に没頭し、プレイ時間は軽く600時間を超えていたと思う。

そんな僕に、高校受験を真剣に考えさせる出来事が起きた。それは、僕と母親と松本先生との三者面談で、今後の進路について相談していた時のことだ。当時の僕は、自分の成績の低さを自覚していたので、地元の平均レベルの高校へ進学しようと思っていると伝えたところ、松本先生は言った。

「いやいや、桑本君ならもっといいところに行けるよ。米子高専を目指そう。」と。

米子高専は、工業系の専門的な知識や技術を学ぶことができる、国立の工業高等専門学校である。実は小学生の頃からNHKの高専ロボコンをテレビで見て、憧れを抱いていた。だが、当時の僕には、雲の上の存在に思えたため、正直、合格できる自信はなかった。実際にレベルの高い学校で、以前受けた実力テストの結果も合格点に足りていなかった。しかし、担任の先生が僕にこう言ってくれた。

「桑本君なら受かると思います。」

そう言われて僕も母もビックリしたが、内心ではすごく嬉しかった。自分の存在価値が認められたような気がしたからだ。その言葉に背中を押され、米子高専の受験を決意し、そこからは勉強に対する態度が一変した。ほんの数ヶ月間ではあったが、人生で一番真剣に勉強に励んだ。すると、みるみるうちに成績が上がり始め、実力テストで合格点をだんだんと採れるようになり、無事に試験に合格することができた。これには母親も驚いていた。持てる力の全てを出し切ったので、翌日には寝込んでしまった。

米子高専への入学は、僕の人生にとって大きな転機となった。松本先生があの言葉をかけてくれなかったら、正直、今の自分はいない。もし先生に会うことがあったら、「本当に人生が救われました」とお礼を伝えたい。

高専ロボコン初の二連覇を達成

無事に米子高専の機械工学科という、ものづくりの学科に進学することができたわけだが、クラスメイトはみんな向上心が高く、不毛な悪口を言う人はほとんどいなかった。今までの友人関係が最悪だった分、その悩みから解放されたことはとてもラッキーで幸せなことだった。

入学早々に実力テストを全員受けさせられた。結果は、40人中16位。「半分より上じゃん!」と、正直ほっとした(笑)。しかし、高専は5年制で短大扱いとなるため、5年間で4科目以上60点以下を取ると即留年という厳しいルールがあった。しかも毎年のように留年者がいたため、恐怖におののきながら、必死に勉強する日々が始まった(苦笑)。

入学と同時に、米子市から30km離れた大山町にある母の実家に引っ越して、母方の祖父母と一緒に暮らし始めた。自分の部屋をもらえたことが嬉しかったが、高専からかなり遠くなったため、電車での通学に往復3時間もかかるようになるようになってしまった。しかし、全く新しい土地だったため、友達がゼロ。知り合いが誰もいない。その分、一人で静かに通学中の電車でたっぷり勉強することができ、5年間そんな生活が続いた。そのお陰で、成績がクラスで16位だったのが2位となり、全科目の平均点が93点になったりなど、卒業まで常にトップクラスの成績を維持することができ、授業料は全額免除だった。トータルで100万円ほどは浮いたはずだ。昔住んでいた家を出てからは、ずっと貧乏な生活が続いていたので、かなり経済的に助かったと思う。

特に、数学と物理学はかなり勉強していたので、学年全体200名の中でもトップクラスで、先生からは「三度の飯より三重積分が好きな桑本くん」と呼ばれるほどだった(笑)。成績が上がったことで、周りのクラスメイトや先生から一目置かれるようになり、だんだん自分に自信が持てるようになった。「やればできるんだ!」というこの成功体験が、現在のコーチとしての仕事に繋がっている。

   
高校三年生の時の集合写真&教室で勉強する様子。休憩時間中も常に勉強していた。

高専にはNHKが主催する全国高等専門学校ロボットコンテスト、通称ロボコンという部活があった。他にもいろんな魅力的な部活があったので少し悩んだが、やはり子供の頃からの憧れだったこともあり、すぐに入部した。1年生の頃は部品の加工を工場で行う作業が多かった。旋盤やフライス盤、ボール盤などの工作機械を使って、アルミやステンレスの板材や棒材を加工した。しかし正直、そういう油くさい作業は嫌いだったので、なるべくサボるようにしていた(笑)。

そして、2年生になるタイミングで、回路班に立候補し、電子回路の製作やプログラミングをするようになった。正直、こっちの方が何倍も楽しかった!抵抗器やコンデンサー、LED、トランジスタ、FETなど、様々な電子部品を思い通りに並べて、電気を流し、動かしてみる。さらにPICというチップにC言語でプログラミングして、バッテリーとモーターを繋げれば、ロボットをウィーンと動かすことができる。これはすごく快感だった。いわばオリジナルのガンダムを自分で作っているような感じで、楽しくないわけがなかった。それからは、寝る間も惜しんでロボット製作に打ち込む日々が続いた。深夜まで実験を重ねては失敗と改良を繰り返し、それをチーム一丸となって大会に挑む日々は、まさに青春だった。その努力の甲斐もあり、2010年と2011年に中国地区大会で二連覇するという快挙を成し遂げた。

 
2011年に製作した二足歩行ロボットと、大会での様子。青色のユニフォームを着て、ロボットの操縦に全力集中。

これらの経験によって、自分に大きな自信を持つことができ、卒業後は「どうせなら日本で一番良い大学に行きたい」と思い、東京大学を第一志望にした。将来はNASAでロケット開発をするというのもカッコいいなと思い、東京大学の航空宇宙工学科を受験したが、倍率30倍の編入試験の壁は厚く、不合格となった。

1年間ずっと受験勉強してきたこともあって、それから数日間は魂が抜けたように頭が真っ白になったが、世の中には努力では到底敵わない本物の天才がいることを痛感するとともに、自分に合った別の道に進めばいいという大きな気づきを得た。そして、滑り止めで合格していた京都の国立大学、京都工芸繊維大学の機械システム工学科へ進学することにした。

故郷を離れ、京都工芸繊維大学へ3年次編入

京都工芸繊維大学の名前を初めて聞いた方は、「工芸品や繊維品について学ぶ大学かな?」と思うかもしれないが、実は東京工業大学の姉妹校で、れっきとした工学系の大学である。本当は京都工業大学と呼んだ方が分かりやすいのだが、かつて蚕の講習を行っていたことから、工芸繊維という名前に落ち着いたそうだ。

正直なところ、大学に入学した時点で、機械工学は散々学んできたので、飽きてしまっていた。そこで、大学以外の時間は興味のあった心理学を学んだり、セルフコーチングを実践したりするようになった。というのも、既に述べたように幼少期の生活環境がどん底の暗黒時代だったので、「どうすれば幸せな人生を送れるのか?」ということを常に考える癖が付いていたからだ。お金、時間、人間関係、あらゆる面で満たされた、真に幸せな人生を送りたいと望むようになったわけだ。しかし、工学系の大学のため、心理学や脳科学を大学で本格的に学ぶことは難しかった。だが、機械科の中で唯一、認知神経科学の研究ができる研究室があることが分かったので、迷わず門を叩いた。

認知神経科学とは、認知科学の中でも特に、人間の脳と心を情報処理の観点から解明しようとする新しい学問だ。機械科は100名のクラスメイトがいて、GPAが4.0満点中3.5以上ないと確実には希望の研究室に入れなかったが、最終的にはGPA3.52を獲得し、成績上位クラスに滑り込むことができた。本来なら3.7くらいは取れたと思うが、興味本位で受けた授業のテストで低い点数を取ってしまったため、ギリギリの結果となった。どうやら、その場の思いつきで行動して失敗する、という悪癖があるようだ(苦笑)。ちなみに成績優秀だったため、授業料が全額免除となったことには母も喜んでくれた。


GPA3.52を取得。100名中6位、3年次編入生の中では1位だった。

京都での一人暮らしは初めての経験だったが、本当に楽しかった。シングルマザーで育てられたので、金銭的に余裕がなく、家賃3万円の床が傾くほどのボロいアパートで、決して満足できる生活環境ではなかった。ただ、それでも地元に比べると大都会だったし、鳥取を早く出て自由に暮らしたいと思っていたので、とても嬉しかった。合間を縫ってアルバイトをし、明光義塾で数学や英語を教えたり、大学のTA(教授の授業補佐)をして、少しでもお金を稼いだ。

学業以外では、観光サークルに入り、京都市内をいろいろと巡ることができたのも良かった。清水寺や嵐山、金閣寺、銀閣寺、龍安寺、東寺、伏見稲荷神社など、本当にいろんな所を巡ったお陰で、感性が豊かになったと思う。

あとは京都で30年以上続く剛柔流の空手道場にも通い始めた。家でごろごろしていた自分に嫌気が差し、「男子たるもの身も心も鍛えなければ!」という武士道精神みたいなものが急に芽生えたことがきっかけだ(笑)。正直、自分にできるか不安だったが、演舞や組み手はそれなりに面白かったため、3年間で黒帯の一つ手前の茶帯にまで昇級することができた。

さらに心身統一の流派の合気道にも通い、世界で3人しかいない八段を保持している引地聖荘先生から教えを受けた。歩く刃物というような殺気だった印象で、全く年齢を感じさせない恐ろしい人だった。武における、力では超えられない氣の存在を体感できたことはとても貴重な経験だった。

   
剛柔流の井手師範と黒帯の仲間と記念撮影&引地先生との合気道の稽古

クイーンズランド大学へ留学

あとは、京都には外国人が多かったこともあり、海外に強い興味を持つようになった。実はそれまで一度も海外に行ったことがなかったのだ。そこで、大学中の掲示板を探し歩き、春休みの期間にオーストラリアへ留学できるという募集を見つけた。応募条件はTOEIC600点以上だったが、僕の点数は560点ほどしかなく、応募資格を満たしていなかった。それでも諦めきれず、「ダメ元でもいいから面接を受けさせてください!」と懇願したところ、面接を受けることを許可され、なんと無事に合格することができた。TOEIC600点以上を取っていた友人が落とされたことを後で知ったが、情熱を持って訴えかけることの大切さを学んだ出来事だった。

留学費用は40万円かかったが、そのうち大学が費用を10万円補助してくれた。あとの30万円をどうするか苦心したが、ラッキーなことに叔父さん(幼少期に一緒に暮らしていた祖母の兄。)が支援してくれた。叔父さんは加来彰俊という人物で、ギリシャ哲学の権威である田中美知太郎氏に師事し、法政大学教授を長年勤めた。1998年には勲三等瑞宝章を受勲されている。実はそんな立派な人になれるようにと、僕の彰文の「彰」という字は叔父さんからもらって付けられた。会話のレベルがとても高く、いつも感心しながら話を聞いていたものだ。


叔父さんの家で著書にサインいただいた後の世間話

そして、無事にオーストラリアへ留学することができた。University of Queensland(クイーンズランド大学)という、あのオバマ元大統領が演説に訪れるほどの名門大学に通うことになったわけだ。クラスには日本人もいたが、台湾人、ブラジル人、サウジアラビア人など、今まで話したことがない国の人と交流することができた。クラスでは一番積極的に発言し、先生からは「Akifumi, you’re on fire!」とよく褒められた。


クイーンズランド大学。規格外に広かった。

ホームステイ先では、オーストラリア人の一般家庭に温かく迎え入れられ、プールとバルコニー付きの広い自宅で、家庭料理のラザニアをご馳走になったのは忘れられない思い出だ。ただ、室内で大型犬を飼っていたのは、少し怖かったが…(苦笑)。他にはクイーンズランド大学の学生達とバーベキューやホームパーティをしたり、海が綺麗なゴールドコーストやモートン島に遊びに出掛けたりなど、いろんな思い出があるが、語りきれないのでまたの機会にしようと思う。

 
ホームステイでお世話になった家と街中にある人工ビーチ

シャープ株式会社へのインターンシップ

帰国後はシャープ株式会社で2週間のインターンシップに参加した。(今はホンハイの子会社になっている。)実はインターンシップは2回目で、前回は村田機械株式会社に行ったのだが、とても良い経験になった。そのようなこともあり、学生のうちに色んな会社を見て視野を広げた方がいいなと思ったため申し込んだ。他にもたくさん応募者がいたので、倍率がまあまああったそうだが、合格理由は、履歴書の写真が茶髪で、それが部長にウケたからだそうだ。

インターンシップでは、プリンターのレーザー発光部から出る熱を冷却するための流路設計を行った。CADで作成した3Dモデルを3Dプリンターで試作し、実験するという、なかなか面白い内容だった。

社員並みにバリバリ仕事をこなしている姿が評価され、数年後の就活シーズンには個別LINEでお誘いが来るほど気に入られていた。ただ、当時のシャープの社員は非常に忙しそうで、10人中9人が早歩きだったことには驚いた…。せかせかするのが苦手な自分には、こんな激務は合わないなと、ひしひしと感じたものだ。

イタリアの学会で認知科学の研究成果を発表

大学に戻ってからは、研究室に配属され、本格的に認知神経科学の研究をするようになった。専門的には、ナノメートルという、目には見ないミクロな結晶構造(例えば、雪の結晶など)の成長過程をシミュレーションできる特殊な手法(Phase-field法)を応用し、脳や身体の神経細胞がどのように成長してネットワークを形成するのか?を解明するための数理モデルを開発するというものだ。

当時、世界的にもトップクラスの処理速度を誇っていたスーパーコンピュータ「京」や「TSUBAME」を使い、大規模シミュレーションを行ったりもした。研究生活は忙しかったが面白く、毎日のように朝から夜遅くまで研究に熱中した。その熱心な姿勢が教授に評価され、複数の国内学会で研究発表を行う機会に恵まれ、大学院1年生の春には、研究室内の学生で唯一、イタリアで開催された国際学会Coupled Problems 2015で研究発表をプレゼンテーションするチャンスを掴んだ。

   
国際学会Coupled Problems 2015のパンフレット&学会に承認された研究概要の説明資料

国際学会はイタリアの水上都市、ベネチアで行われた。とても美しい街並みで、「ここは映画の世界か!?」と錯覚してしまうほどだったし、料理も美味しいものばかりだったので、機会があればぜひ行ってみてほしい。学会での発表は全て英語で行われ、数十人が研究内容に興味を持ってくれた。世界中を見てもPhase-field法を用いた神経細胞成長のシミュレーションをする研究はないので、それなりに希少な内容だった。

質疑応答も英語だったため緊張したが、オーストラリアへの留学経験があったことや研究メンバーのエクアドル人のPh.D.と普段からランチで英会話をしていたおかげで、全て答えることができた。こうして無事に国際発表を終えることができ、帰国後には「京都大学の研究室の博士課程に進んだらどうか?」と、教授から嬉しいオファーをいただいた。

   
ベネチアの船の上で会場へ向かう&研究発表の様子

祖父の死をきっかけに、大学院を退学して起業を決意

しかし、そんな中で、幼少期に厳しく育てられた祖父が病気で亡くなり、一時的に地元に帰省することになった。子供の頃からずっと世話になっていた祖父だったので色々と感慨深いものがあり、今後の人生について真剣に考えた。「自分は将来どうなりたいのか?」「このまま認知神経科学の研究者になりたいのか?」「他にやりたいことはないのか?」と数日間、自問自答した。

そして最終的には、研究ではなく、もっと日常生活に直接役立つようなことを学びたいという気持ちや、会社や研究所に守られた存在ではなく、自分自身で起業し、ビジネスに挑戦してみたいという強い想いが湧くようになった。そこで、京都大学博士課程への進学のオファーはお断りし、思い切って大学院を辞め、何か新しいことで起業しようと決心した。

退学後は、素人でも簡単にできそうなインターネットを使った物販ビジネスを始めた。日本にある良さそうな物を海外のショッピングサイトに出品し、輸出するというものだ。ビジネススクールに20万円ほど払って、やり方を勉強し、始めてみたところ、さっそく稼ぐことができた。しかし、数ヶ月ほど続けていくうちに、やり甲斐を見出せず、だんだん出品作業や発送作業が面倒くさくなり、パタリと辞めてしまった。これをきっかけに、いくら稼げることでも、情熱が持てて長年継続できるような、好きなことじゃないと意味がないことを悟った。

堀場製作所に就職し、100億円規模の売上に貢献

その後、具体的に何をして起業するのかが決まらなかったため、それまでの準備期間として、京都の上場企業である株式会社堀場製作所に製品設計者として就職し、ナノメートルオーダーの計測機器の製品の設計に携わった。レーザー光を照射して微粒子のサイズを計測するという主力製品を2種類開発することに成功し、100億円規模の売上に貢献した。

仕事で活躍する一方で、実は仕事内容にはあまり興味が湧かなかった。ホワイトな職場で、人間関係も、給料も良かったのだが、、、

「じゃあ、なんでそんな興味が持てないような会社に入ったんだ?」と思うかもしれないが、理由は二つある。一つは、急に大学院を退学することになったので、多くの会社は既に求人募集が終わっていたこと。もう一つは、当時付き合っていた彼女と京都で同棲する約束をしていたからだ。彼女と一緒に暮らすために京都内で就職先を探す必要があり、消去法で選んだベストな会社だった。

実際に同棲生活は楽しく、二人であちこち旅行したりできたので後悔はしていない。しかし、二人で暮らしているせいで、会社からもらえるはずの家賃補助が全くもらえなくなったのは失敗だった。年間で70万円もらえるはずだったが、入社時に正直に同棲していることを明かしたせいで、数百万円がパーになってしまった。結局、一年後にはお別れをし、一人暮らしをすることになったが、それでももらえることはなかった(苦笑)。

   
同期120名との入社式と新製品リリースの記念写真。


京都での一人暮らし。インテリアはブラウン系で統一。

世界最高峰のコーチング理論手法の学び

さて、話を戻すと、会社の仕事には全く興味が持てなかったわけだが、「将来は自分が好きなことで起業したい」という情熱は揺るがなかった。そのため、仕事から帰ってきた後の時間や土日の休みは、「自分がこれから何をやりたいのか?」ということをいろいろ考えた。そして、様々な自己啓発書を読み漁る日々が1年間続いた。

その中で、特に転機になったのが、カーネギーメロン大学の博士である天才認知科学者、苫米地英人博士の書いた『洗脳原論』という本との出会いだ。彼はオウム真理教信者の脱洗脳のエキスパートで、後述するルー・タイス氏の影響もあり、世界各国の大統領にコーチングを行ったりもしている。その本をたまたま本屋で見つけて読み、感動したことがきっかけで、人間心理にさらに興味を持つようになった。非常に理解が難しい、レベルの高い内容だったため、じっくり1〜2年かけて苫米地博士の書籍を100冊以上読み、講座に参加して直接学んだりもした。

苫米地博士のコーチング理論手法の大きな特徴としては、非言語で相手の心理状態を書き換えるというものがあり、気功の技術が使われている。

専門的で難しい話になるが、これは認知科学的には「共感覚的内部表現の書き換え」と呼ばれている。物理的には見えないが、なんとなく感じられる精神的なオーラのようなものをイメージ化し、相手の夢や理想が実現できるようなイメージに操作する。その臨場感を強く持ちながら、相手と話したり、呼吸を合わせたりすることで、自分と相手にホメオスタシス同調が起き、相手の潜在意識が良い状態に変わるという方法だ。相手が良い状態に変わっていることに臨場感が持てればいいので、必ずしも実際にオーラのようなものが見える必要はない。そのため、何か具体的な話をしなくとも、相手の潜在意識を変えることができる。

そこで、その秘密を探るため、気功の大先生である張永祥氏の講座に参加し、学んだ。張先生のことを簡単に紹介すると、6歳から秘伝の気功を中国の本家で学び、秘伝中の秘伝と言われる「千里診脈」を体得された。これは遠く離れたところの目には見えない相手の健康状態を診断できるというもので、多くの患者からゴッドハンドと称賛されている。また、何万キロも離れた相手に対して氣を送る「遠隔気功」も可能で、病気で困っているジャッキー・チェンや田中角栄元内閣総理大臣の治療を任されたという逸話もある。そんな彼から数回程度ではあるが直接気功の教えを受けた。頭頂部にある百会という経絡から氣の伝授もしていただき、簡単な気功ならできるようになった。

余談だが、氣の実在について少し話したいと思う。実は僕の姉は東洋医学の先生をしており、鍼や灸を使って病気を治すことができる。これは解剖学的には鍼を身体に刺すことで、皮膚や筋肉に刺激が行き、免疫力や血行が活性化して、治癒されるというメカニズムがあると考えられる。しかし、実際の診療ではそれだけではなく、宇宙に充満している氣を鍼に込めて治療するということをするそうだ。特に姉が鍼を教わった師匠は氣を使う達人で、鍼をするだけでトラウマを治療できたりするそうだ。大阪に治療院があるが、病が重い患者が来院する際には、姿が目に見えるよりも前に、黒い煙のようなモヤが見え、気配を感じ取れるらしい。もはや超能力の世界だが、ユングでいう集合的無意識、苫米地博士でいう生命素粒子の理論モデルが正しいと仮定すれば、そのような現象が起きても不思議ではない。

また、コーチングの創始者と言われる元祖コーチ、ルー・タイス氏のコーチング理論も洋書を取り寄せて学んだ。ルー・タイスと苫米地博士が共同制作した自己啓発プログラムは、日本を含む世界60カ国で延べ3300万人が受講し、NASA、米国国防総省などが教育プログラムとして採用しており、アメリカのトップ大企業であるフォーチュン500社の62%、英国ではファイナンシャル・タイムズ誌100社の30%以上の企業などにも導入されている。北京オリンピックで8個の金メダルを獲得したマイケル・フェルプスも指導するなど、正直、規格外の実績だ。

残念ながらルー・タイスは2012年に亡くなっているが、南アフリカ共和国のアパルトヘイト撲滅にも尽力し、アイルランド紛争の終結に直接関与するなど、社会的な平和活動も行う、物腰やわらかでエネルギッシュな人物だった。

そんなルーと苫米地博士が共同で開発した、40年の伝統と認知科学、心理学に基づくセルフコーチングの理論手法が学べるプログラムがあったので、受講した。二日間だけで数十万円するので、申し込むのには勇気が要ったが、世界最高峰のコーチング理論を学ぶためなら必要だと思い、申し込んだ。専門用語がバンバン出てくる中上級者向けの内容ではあったが、ぶっ飛んだゴールを自動達成できる脳の仕組みがロジカルに分かり、セルフコーチングのイロハを学ぶことができた。また、これをきっかけに今まで自分が無意識のうちにやっていた自己対話がセルフコーチングだと分かり、「これを仕事にできたら幸せだな」と強く思うようになった。

セルフコーチングについては2015年からSNSで簡単に情報発信していたが、2018年から本格的にブログを始めていた。そして、2019年に仙道達也さんというwebマーケティングコンサルの方が開催しているスクールに入り、一通りのwebマーケティングを学んだ。その3ヶ月後には、初めてコーチングのクライアントを持つようになり、売上が出るようになったタイミングで、4年近く勤めた会社を辞め、2019年7月にコーチとして独立した。


ルーと苫米地博士が共同開発したセルフコーチングプログラムの修了式

世界最高峰のコーチとの武者修行

クライアントにセルフコーチングを教えていく中で、ルー・タイスと苫米地博士が開発したコーチング理論は、人生のあらゆるジャンルで理想を叶えていくことや、ビジネスやお金、スポーツなどでハイパフォーマンスを発揮して成果を上げていきたい場合にはとても効果的だと分かった。要するに、どんどん夢や目標を実現していきたい人向けだ。しかし、その一方で、人間関係の問題や不安やイライラなどのネガティブ感情に悩むケースの解決方法が分からず、行き詰まってしまった。どんなにハイパフォーマーな人でも、ネガティブ感情に悩むケースは少なくないため、その対処法を学ぶ必要があったわけだ。

そこで、さらに幅広いクライアントに対応できるように、ベストセラー書籍『嫌われる勇気』で有名になった心理学三大流派の一つである、アドラー心理学に基づいたコーチングを宮越大樹さん、カウンセリングを平本あきおさんから学んだ。

日本にはたくさんのプロコーチがいるが、その中で最もプロコーチを養成している大ベテランは誰か?と聞かれたら、宮越大樹さんと答える人は多いだろう。彼は平本あきおさんの一番弟子で、これまでに2000人以上のプロコーチを養成してきている。髪が金髪で見た目はいかにも不良な感じだが(笑)、実力は確かで、おそらく世界中で見ても最高峰のプロコーチトレーナーだろう。何よりもコーチングやクライアントに対する情熱がすごい熱血タイプだ。

宮越さんを知ったきっかけは、起業スクールの同期生からの紹介だった。当時は認知科学に基づいたコーチング理論をベースにしていたのだが、アドラー心理学に基づくものは、今までにきちんと学んだことがないものだった。とても興味深い内容だったため、「これは学ぶべきだな」と直感し、宮越さんのプロコーチ養成スクールに申し込んだ。当時は通常クラスと上級クラスの二つがあり、通常クラスで70万円、上級クラスとのセットで100万円だった。「どうせ受けるなら上級クラスのセットがいいだろう」と思ったが、正直、100万円も払える貯金がなかった。そこで母親になんとかお願いしてお金を借りて支払った。

通常クラスでは、コーチングの基本的なGROWモデル(ゴール設定、現状把握、戦略出し、行動決定)に関する質問や、インタラクティブリスニングと呼ばれるクライアントの潜在意識レベルでの気づきや発見を促すための質問(具体化、網羅、目的、反芻、抽象化、肯定形)を主に学んだ。それ以外にも、コーチとしての態度や聞き方(受容、共感、自己一致)などもみっちり学び、毎回の授業が終わる頃には頭がクラクラするほど内容が濃かった。これらの内容について語り始めると何日もかかるので割愛するが、書籍『嫌われる勇気』から学べる価値を10とすれば、1000は学べるだろう。そのくらい役立つ内容で、仕事、人間関係、趣味、健康、スポーツなど、ありとあらゆるテーマを解決できる汎用性の高い理論手法だった。

受講期間中に、宮越さんのコーチングを個別で2時間ほど受けたことがあるが、クライアントへの共感レベルや質問の的確さが素晴らしく、心を読まれているのではないかと錯覚するほどだった。今までに100人くらいのコーチからコーチングを受けたことがあるが、一番自然かつ深い臨場感体験のあるコーチングだった。

通常クラスには40名ほどの受講者がいたが、その中から僕も含めて4名ほどが上級クラスを受講した。少数精鋭のレベルの高いクラスで、緊張感がものすごかった。正直、途中で辞めたくなるほどのスパルタ指導だったので、毎回命懸けの全力で臨んだ(苦笑)。トータルで1年半ほど学んだが、このクラスは僕にとって人生が変わるほどの大きなターニングポイントとなった。特にクライアントの気持ちに没入するぐらい深く共感することや、ロジックだけでなく感情も自由に使いながらコーチングをすることの大切さを学び、自分の中に眠っていた可能性に気づくことができた。本当の意味で自己一致して、それを発露させていけば「本当に奇跡のようなことが起こせる!」という、本からでは決して学べないことを体感した。


宮越さんとの対談動画の様子(Youtubeで過去に配信したもの)

また、宮越さんのクラスと並行して、平本さんのカウンセラー養成クラスにも通い始めた。平本さんは米国のアドラー心理学専門大学院と東京大学大学院教育学研究科の修士を取得し、金メダリストを始めとする延べ11万人にコーチングされている大ベテランだ。そして実はカウンセラーでもある方なのだ。こちらも数十万円したが、なんとか捻出して支払った。クラスには受講者が30人くらいいたが、彼らの悩みを平本さんが百人組手のように、ばったばったとカウンセリングで解決していった。まさに神技だった。何十年も抱えていたトラウマがたった数十分で解決されるわけだ。もちろん全員が受けられたわけではなく、その時は抽選形式だったが、今は弟子の先生がカウンセリングするケースが多いと思う。

宮越さんにしても平本さんにしても、一回のセッションが数十万円するし、そもそも募集すらしていないので、受けられただけで非常にラッキーだ。ちなみに苫米地博士は100万円以上する。普通なら「1時間話すだけでそんなに高額なのはおかしい」と思うだろうが、これを受けることで「人生が変わると思ったら安い」という価値観を持った、本気で人生を変えたい人達が申し込むわけだ。

他にも、たくさんの方々からコーチングやカウンセリング、潜在意識、脳科学、心理学、哲学、量子力学、スピリチュアル、陰陽、気功などの理論や手法を学び、これからも一生涯、探求し続けることになるだろう。話が長くなるので、ここら辺で割愛しようと思うが、こうして世界最高峰の認知科学とアドラー心理学に基づくコーチングの理論手法を学び、たくさんの先生や協力し合った仲間との出会いがあったお陰で、ようやくコーチとしての覚悟を持つことができたと実感している。


平本さんと講座終了後に記念撮影

認知科学セルフコーチング理論手法の確立

いじめ、離婚、家出、借金の全てが重なったどん底の暗黒時代から、人生が大きく変わり、イアリアの学会で認知神経科学の研究成果を発表した経験と、今までのたくさんの先生方と1000冊以上の書籍や論文からの学び、200名以上のコーチング実施経験などの全てを活かし、ついにオリジナルの「認知科学セルフコーチング」というメソッドを2023年に確立することができた。

このメソッドは潜在意識を6つのSTEPで書き換えるというもので、ロジカルなのに非言語領域から潜在意識を変えていくことができる、世界で唯一の再現性の高い理論手法となっている。2023年にこの理論手法の全体像を学べるセミナーをメルマガやLINE読者さん限定で開催したところ、100名の方が参加し、大好評だった。2019年からのシリーズ累計で言えば、受講数は800名を突破し、まもなく1000名を超える。認知科学セルフコーチングを本格的に学べる実践プログラムを、しっかり最後まで受講していただいた方からは、あまりの情報量の多さに圧倒されたりもするが、100%潜在意識と現実が変わったと嬉しい報告をいただいている。

もちろん、僕自身もセルフコーチングのお陰で大きく人生を変えることができた。セルフコーチングという大好きなことを仕事にすることができたし、収入も会社員時代の何倍にもなって、講座の受講費用の借金も返済が完了した。セルフコーチング以外にも、起業コンサルや法人向けの研修、出版書籍の監修なども行い、複数の分野でビジネスを展開できている。

フランス人との国際恋愛で理想以上の恋人と付き合うことができたり、友人関係にも恵まれ、母や姉との仲も年々良くなり、本音で伝えたいことを言い合える関係性になれている。特に母にはシングルマザーで僕を育ててくれて、すごく苦労をかけたので、毎年、食事や旅行をプレゼントして、少しでも親孝行をするようにしている。

あとは、習慣化が本当に得意になって、毎日10時間何ヶ月もぶっ続けで仕事ができるようになれたり、ジョギングや筋トレをして半年間で6キロの体重と体脂肪を6%落とし、人生で一番筋肉を増量することができた。自分の見た目も昔に比べてずいぶんと垢抜けてきて、仕事、お金、人間関係、時間、健康、美容など、本当に人生のあらゆる方面で変化が起こってきている。

そして現在は、この人生を変えるインパクトのあるセルフコーチングを、最新の認知科学に基づいた再現性の高い理論と手法としてわかりやすく解説し、多くの人に知っていただくために活動している。

具体的には、YouTubeで230本以上の動画を配信し、ニッチなジャンルにもかかわらず、チャンネル登録者数1200人、動画視聴回数70,000回を突破することができた。さらに、「認知科学」というキーワード検索では3年連続Youtube上位表示1位を達成することができ、認知科学の普及にも貢献している。

本当にセルフコーチングは僕の人生を救ってくれたし、これからもっと理想の未来を実現していくための心の支えでもある。もし生まれ変わるとしたら、このスキルだけは覚えて生まれ変わりたいと心の底から思うし、子供や孫にも伝えていきたい一生物のスキルだ。日本はもちろん将来的には世界中の人たちに知っていただけるように尽力していきたいと思っている。


2019年に東京で開催したセミナーの様子

 
シングルマザーで育ててくれた母と家族に、旅行をプレゼントして恩返し

戦争と差別のない世界平和の実現へ

僕が人生をかけて追い求めているもの、それは「戦争と差別のない、世界平和の実現」だ。こう言うと「そんなの綺麗事でしょ。」と思われたりもするが、本気でそう思っている。なぜなら、自分自身がいじめ・離婚・家出・借金などのどん底の暗黒時代を体験し、理不尽で不公平な世の中の現実を嫌というほど見てきたからだ。実際に今でも戦争は続いているし、貧困で苦しむ人は7億人以上いると言われている。こんな世界を将来の子供達に残すのは大人として本当に情けないと思う。

「世界平和の実現」は、あまりにも壮大で、絵空事のように感じるかもしれない。でも、僕には極めて現実的なビジョンが見えていて、具体的には「世界平和の実現は、一人ひとりの個人が変わることによって達成できる」と考えている。

現代社会は、物質的には豊かになりつつあるが、まだまだお金や時間に余裕がない人がすごく多いし、人間関係などの心の豊かさも感じられない人が多い。実際にこういう相談を受けることが多い。この余裕のなさが悪化すると、いじめや差別、争いを生み、戦争が起きる温床となるというメカニズムがある。

では、どうすれば一人ひとりが物質的&精神的な豊かさを実現できるのか?

その鍵は、思考・感情・行動の95%を支配する「潜在意識を変えること」にある。

そして、そのための有効な一つの方法が「セルフコーチング」だ。科学的でわかりやすい「幸せに生きるための法則」や「願望実現のメソッド」を学び、実践することで、私たちは自分自身の可能性を最大限に引き出し、真の幸せを掴むことができ、その幸せが周りに伝播していくことで世界平和の実現に近づくと考えている。

そのため、これまでに探求して体系化した認知科学セルフコーチングを、より多くの人に届けるために、最終的には年間10万人が受講する学校を作りたいと考えている。誰もが心の内に秘めた可能性を最大限に開花させ、自分らしく本音で生きられる、自分の足で力強く人生を歩めるような、そんな学校を創りたいのだ。

具体的な構想としては、認知科学セルフコーチングを中心にした、脳と心のポテンシャルを最大限に発揮できるような実践的なカリキュラムを提供するというものだ。この実践プログラムは既に完成しており、一番力を入れているものでもある。

さらに近年はChatGPT、Gemini、Claudeなどの最新の生成AIの性能がものすごく発展してきており、2034年までに全人類の叡智よりも10000倍賢いAIが誕生すると言われている。そのようなAIは脅威でもあるが、これをセルフコーチングに活用していけば、人生が変わるスピードを飛躍的に高めてくれるだろう。

また、VR(仮想現実)を応用すれば、臨場感豊かに理想の世界を味わうことができるので、持ちたいセルフイメージ、意識状態を自由に生成できる。つまり、イメージングやアファメ−ションを手軽かつ強力にできるようになるわけだ。このようなテクノロジーを活用することで、夢や理想を叶えていくための潜在意識をさらに強く定着させていくことができるようになる。

まずは、年間300人が受講できる講座を開設することが当面の目標だ。このチャレンジに共感してくれる仲間が増え、活動が広がっていくことを願っている。僕を応援してくれる人たち、そして認知科学セルフコーチングのメソッドに共鳴してくれる人たちと一緒に、この夢を実現していきたい。

セルフコーチングによって自己効力感(エフィカシー)や自己肯定感、自己受容感が高まると、人は「自分の人生を生きている!」という実感が持てるようになり、周囲の人々にも優しくなれる。自分が叶えたいゴールを明確化し、本当に大切なものに気づけば、世界をより良い場所にするために、自分は何ができるのかを自然に考えるようになる。

アドラー心理学では、この状態を「共同体感覚」と呼ぶ。他人をファミリー、仲間だと無条件に信頼し、周りに貢献したいという純粋な気持ちが満たされることで、人は本当の意味で幸せになれる。これは単に、宝くじに当たった喜びとは異なる、抽象度の高い高次元な幸せだ。この状態になれば、他人の幸せを自分の幸せとして感じられるようになるため、自分自身の幸せの表面積が増えることになり、幸せのループに入ることができる。

世界平和の実現は、決して不可能な夢ではない。一人ひとりがセルフコーチングを通して、自分自身の内面と向き合い、幸せの抽象度レベルを高めていけば、世界は少しずつだが、着実に良い方向に変わっていく。

One for all, all for one.

2200年の未来を生きる人々に、より豊かで幸せな世界を残すために。

これからも挑戦を続けていく。

わずかな可能性を信じる理由

もしかしたらあなたは今、仕事が思うように成果が出なかったり、お金に余裕がなかったり、自分の自由な時間が持てなかったり、人間関係にうんざりしていたり、人生に行き詰まっていたりするかもしれない。過去の僕もそうだった。暗闇の中で希望を見失い、自分にとっての理想の人生を描こうともしなかった。

しかし、たとえ微かな希望の光であっても、その光を見失わず、追い求め続けることで道は必ず拓ける。僕自身がそうすることで、今ではやりたいこと100%の生活が実現し、仕事とプライベートの両方で理想の人生が叶い始めている。そして、これは僕が特別だったわけではなく、あなたにも同じ可能性がある。最新の認知科学が示すように、脳の可能性は無限大だ。

どんなに小さな希望でも、それを見て見ぬふりしないでほしい。

憧れを憧れのままで終わらせないでほしい。

人生には「奇跡みたいなことが本当に起きるんだ!」と信じてほしい。

自分の可能性を信じ続けることで、あなたの人生は色鮮やかに変わり始める。

最後まで読んでくれて本当にありがとう。
ここまでの話を通じて、あなたの心に希望の光が灯り、新しい可能性の扉が開かれることを願っている。
僕が中学生だった頃、恩師がかけてくれた「たった一つの言葉」のように、ちょっとしたきっかけで人生は大きく変わり始める。

さあ、次はあなたの番だ。小さな一歩でも、その一歩が大きな変化への始まりになる。まずは理想の未来を自由に描いてみよう。過去や現状は全く関係ない。できるかどうかではなく、やりたいかどうかが肝心だ。希望を見出すことで潜在意識が動き出し、未来が輝きに満ちたものになるのだから。

あなたの新たな一歩を心から応援している。

 

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